ひょんな縁から御神輿を担がせていただいて、いままで知らなかったたくさんのことを教えていただいた。わけても「御神輿は小さな神社のようなもの」という言葉にはとても感銘を受けた。
古来より日本のマチやムラの中心には神社があった。大人たちは豊作を祈り、家族の健康を祈り、子どもたちは境内を遊び場とし、祭りには縁日が並び、人々が集った。神社というのは人々にとって文字通り拠り所、だったんだろうと思う。
見えざるモノに守られている、という感謝。
見えざるモノに見られている、という畏怖。
感謝や畏怖は人間を謙虚にする。「おてんとさまが見てござる」「八百万の神」という日本人の神様観は、人間のこころの自然な発露であるのだろうと思うのだ。
しばしばこのコラムでも書かせていただいているが、私は隠れ神社マニアであります。特別な宗教観も信仰心も持たず、スピリチュアルなんちゃらとかいう世界も眉唾で傍観する者であるけれど、いい神社というのはなんとなくわかる。いい神社というのはマチの人々に大切にされていて、清浄でやわらかい気が満ちている。人がいなくても寂しい感じはなくて、ほんわりと安心できる気配がある。先だって通りかかった神社もそんな場所だった。
新琴似は私にとって完全アウェイ。土地勘もまったくないエリアであるが、なんとなく神様が「オイデオイデ」している気がしたので、ふらふらと参拝に立ち寄ってみた。
新しい鳥居から2つの古い鳥居へ連なる参道が厳粛な、それでいてあたたかい雰囲気をかもし出しつつ、本殿へと手招きする。
新琴似神社のホームページによると、
「明治20年(1887)5月20日、陸軍屯田兵歩兵第一大隊第三中隊が開拓使札幌本府の北方、新琴似の地に入植し、入地後ほどなく中隊本部(現在・札幌市有形文化財指定)の東方、浄泉の湧き出る四神相応の浄地を相してその社地と定め、小規模ながら、天照皇大御神・豊受大神・神武天皇の三柱の神を奉斎する神祠が営まれ、開拓の守護神として御鎮座されたのが、新琴似神社の創祀である。」
とある。
北海道の神社は開拓使の歴史と不可分だ。本州以南の由緒正しく長い歴史を持つ神社には比ぶべくもないが、北海道の神社には「この地で生きる」と覚悟を決めた人々の切なる思いをどっしりと受けとめてきた揺るぎなさがある。この新琴似神社にも。
そんな気分で見るせいか、狛犬さんたちも落ち着いている感じ。
本殿のまわりにはみずみずしい樹木が茂る。樹木に生気があるというのもいい神社のポイントだ。「木」は「気」に通じるからね。
神社の目の前には車通りの激しい道道が走っているにもかかわらず、境内のなかは森閑として、ゆるやかな時間が流れている。
お賽銭を投げ入れて、「はじめまして」と頭を下げた。
● 新琴似神社
札幌市北区新琴似8条3丁目1-6
![Doreca[ドレカ] 車選びの総合メディア](http://kuruma.hokkaido-np.co.jp/common_img/header/header_logo.gif)









