三輪山の神に見守られながら黙々と歩いていくと、だんだん道の両側に鬱蒼と木が茂りはじめ、やがて桧原神社(ひばらじんじゃ)に出た。
桧原神社は大神神社の摂社にあたり、三輪山そのものを御神体としているため、拝殿も本殿もない。参拝者は「三ツ鳥居」を通して三輪山の神を拝するのだ。こじんまりとしているけれど、すがすがしい気に包まれている感じがする。
桧原神社を出てさらに歩いていくと、すれ違う人がだんだん増えてきた。と思ったら、目の前に狭井神社(さいじんじゃ)があった。
狭井神社も大神神社の摂社にあたる。私は天理側から山の辺の道を歩いてきたのだが、三輪側から入ってまず大神神社に参拝してから狭井神社、桧原神社……とる逆ルートをとる人も少なくないようだ。ここまで歩いてくる道すがら、すれ違う人といったら数えるほどしかいなかったのに、狭井神社はなかなか賑わっている。面食らいながらもいよいよ総本山に近づきつつあるのだなあ、と思う。
狭井神社には、大神神社の御祭神である大物主大神(おおものぬしおおかみ)の荒魂(あらたま:災いを鎮める神霊)が祀られており、病気平癒にご利益があると伝えられている。本殿の左手奥に「薬井戸」があり、ここから湧き出る“神水”は万病に効く、のだとか。効果のほどはともかく、汗をたっぷりかいたカラカラの喉をうるおう水は、まさに神の恵みであった。中にはペットボトルやポリタンクをいくつも抱えて水を汲んでいる人もいて、北海道でいうならば京極やニセコで見られるような水汲みの光景が繰り広げられているのだった。
狭井神社を出ると、大神神社は目の前だった。
大神神社は日本最古の神社とされており、御祭神である大物主大神の和魂(にぎたま:幸福や収穫をもたらす神霊)が祀られている。
桧原神社や狭井神社と同じく、大神神社にも拝殿や本殿はない。三輪山そのものが神様なのだから、いわば神様のふところに抱かれているようなものだ。そのためなのかどうか、境内に一歩足を踏み入れただけでおおらかな明るい気に包まれるのがわかる。気持ちが浮き立つような、いつまでもここにいたいような気分になってくる。参拝し、摂社や末社をひととおり巡り、境内の隅で休んでいると「ここまで連れてきていただいてありがとうございます」という気持ちが自然にあふれてくる。
天理から三輪まで16kmを歩きながら自分と向き合った経験は、自分を超えた何者か慈しみを感じさせ、自分を縛っていた傲慢さやこだわりを手放させてくれた。それを神と呼ぶのか、気の迷いなのかは知らないけれど。
奈良へ来てよかった。三輪まで歩いてほんとうによかった。ここ最近感じたことがないような満足感に満たされて、駅へ向かうために参道を下りた。
奈良でいくつも神社を歩いて、とても感心したことがある。参拝する人々が老若男女を問わず、鳥居をくぐるときと出るときに必ず一礼するのだ。いまどきの若いカップルの女の子が男の子に向かって「アンタ帽子とりぃな。失礼やろ!」と言い、男の子が素直に帽子を取って鳥居に頭を下げたのにはちょっと驚いた。そしてうれしくなった。古来から寺社とともに生きてきた地方の人々は、生活の中でごく自然に神仏を敬うことを教えられてきたのだろう。たとえ無宗教でも、自分を超えた何者かに敬意を払うことは人を謙虚にする。北海道ではなかなか見かけない光景に、神社マニアの心は激しく躍るのだった。
それにしても歩いた歩いた16km。この日の夜はお風呂に入って倒れるように眠ってしまった。
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