131 *そうだ、京都、行こう。~三輪山の神に会いにゆく編~

2009年11月17日 15:42|つれづれ雑記

 ふだんパソコンの前に座りっぱなしの生活を送っていると、歩くことだけに集中する時間というのはとても新鮮に思える。
 街の喧噪やカラフルな看板に目を奪われる都心を歩くのとは違って、なーんにもない山道をただ歩く。iPodも聴かず、だれとも話さず、ひとりぼっちでただただ歩く。仲睦まじく前をゆく老夫婦を微笑ましく眺めながら、淡々と歩く。頭の中ではいろいろな思いがぐるぐるまわっている。

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 じつは京都に旅に出る前、急に浮上したある問題についてずっと考えていた。悩み、迷い、ためらい、憤り、悲しみ、絶望し、答えはわかっているのに出口が見えない気持ちのまま、奈良へやってきていた。そんないろいろな思いが、山道を歩きながらもなおぐるぐると回りつづけていた。
 こういうときに自然の中を歩くという行為はもってこいだ。禅問答のように自分に問いかけ、答えられずにぐずぐずと言い訳し、自分を叱り、励まし、また問いかけ……というぐるぐる作業を部屋に閉じこもってやっていると鬱に陥ってしまうけれど、歩いているとなんとなく「ぐるぐる」が歩くリズムに合わせて前へ前へと動きだすような気がするのだ。
 ときどき急勾配に出くわして、登山さながらに息を切らしながら歩く。ぜーぜー、はーはー、という自分の呼吸と足音だけしか聞こえない世界を、歩き続ける。
 だんだん自分の足も、手も、呼吸も、自分のものじゃなくなったような妙な浮遊感に支配されはじめた。する突然、頭の中がかーんとクリアになった。そして私は「そうか、わかった」と声に出していた。
 不遜だけれど、「悟る」ってこういう感覚なのか、と思うほど、それは軽やかで、頭を覆っていた霧がすうっと晴れていくようで、すとんと“それ”が腑に落ちた。
 ああそうか、そういうことか。そう思って目をあげたら、神がにっこり笑っておわしました。

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 三輪山だ。じつは今回の旅でいちばん来たかったのが、ここなのだ。
 三輪山は古代から山そのものがご神体と考えられており、『古事記』『日本書紀』にも「三輪山の神=大物主神(おおものぬしのかみ)」の伝承がいくつも記載されている。私が三輪山の神を初めて知ったのも『古事記』だった。

 いわく。美しい娘にひと目惚れした三輪山の神、なんとかお近づきになりたいと思って赤い矢に変身し、娘が厠で用を足している隙を狙って「ほと(陰部)」を突いた(!!!)。驚いた娘が矢を持ち帰ると神様は元の姿に戻り、ふたりは結ばれましたとさ。
 いわく。ある娘のもとに夜な夜な美男子が訪れ、ほどなく娘は身ごもった。不審に思った両親が男の正体を突き止めるべく、糸巻きの糸に針を通して娘に持たせ、男の衣に刺すよう指示した。翌朝みると、糸は戸のカギ穴を通って三輪山の社へ続いており、男は三輪山の神であったと判明しましたとさ。

 これらの話を読んで、私は三輪山の神が大好きになってしまった。もともと日本の神話には性におおらかな記述が多いが、性は生だ。日本の神様はちょっとスケベでどこか抜けていて愛嬌があって、わくわくするほど人間臭い。その姿はまさに生を生きている。
 三輪山の「三輪」は「神(みわ)」であり「美和」とも記述する。そう、私の名前にも通じるのだ! そういえば私も下ネタが得意でとんでもないヌケ作として通っている(自慢にならない)。おお神よ……!

 無心に歩きつづけている間、私はこの世界でただひとつ、自分の生のみと向き合っていた。わが名のルーツと思われる三輪山の神は、そんな私を泰然と見下ろしていた。
 そうか、わかった。
 生を生きる。
 どんなことが起こっても、死ぬ瞬間までただ生きる。それだけだ。
 
 三輪山の神がおわします「大神神社(おおみわじんじゃ)」はもうすぐだ。
 

佐々木美和

佐々木美和

札幌在住のコピーライター。運転免許はもちろんゴールド(ただしタイヤ交換すらできません)。近ごろクルマとは週末のお買い物や旅先のレンタカー、助手席もしくは後部座席でライトなおつきあい。ですが、クルマのお出かけは大好きです。

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