いまだ気管支炎が治らず、相変わらず休日は引きこもり生活の私。昨今のニュースもダメな芸能人や来週の選挙の話題が中心で、クルマにまつわる明るい話題が見つからない……困った。こんなときは苦しいときの神頼み、神社へ行ってみよーッ!
じつは私、銭湯めぐりと同じくらい神社めぐりが好きなのです。本来ならば神社というのは住んでいる土地の氏神様を旨とすべし、なのだが、知らない町の神社を訪れてみるのはなかなかよいものです。特定の宗教に依らず、その町に暮らす人と神社との付き合い方が見えてくる。それに、鳥居をくぐるときの身が引き締まるような感じもいい。私は無宗教だし、いわゆるスピリチュアルな能力はまったくないけれど、不思議なことに神社ごとに空気感が違うのが感じられる。どんなに大きく立派でも印象が希薄な神社もあれば、ごく簡素で小さな祠しかなくても大きく温かな気配に満ちている神社もあるのも面白い。
もっとも、私は神社では基本的に写真は撮らない。本殿にカメラを向けなければOKらしいが(神主さんに聞きました)、どうも神様に申し訳ないというか、自分が低俗に思えて気がひけるというか。そんな中、「ごめんなさい。すみません。写真を撮らせてください」と神様にお願いして、珍しく撮らせていただいたのが「札幌伏見稲荷神社」(札幌市中央区伏見2丁目2-17)。藻岩山麓通を旭ヶ丘方面へ向かう途中、左手にある。
ここはなんといっても絵になる。計26の赤い鳥居が規則正しく立ち並ぶ参道をゆっくり歩いていくと、ひとつ鳥居を越えるごとに異世界へ足を踏み入れていくような、なんともいえない気持ちになる。たまたまその日は、境内に古物商が集まって骨董のせり市をやっていた。夏祭りや秋祭りしかり、神社というのはさまざまな形で土地の人々が集う場所なのだなあ、としみじみ思う。
参道を歩く間にも、本殿の前で参拝している間にも、ご近所のお年寄りや親子連れ、カップルなどがのんびりと行き交う。犬を連れた若い父親が小さな男の子とひそひそと話しながら本殿へ歩いて行く姿がなんともよかった。散歩の途中にちょいと氏神様にご挨拶、なんて感じの神社との付き合い方が受け継がれる町、なんだかいいものです。
こちらは神社ではないけれど、沖縄・竹富島の拝所(うがんじゅ)。3年ほど前、竹富島の伝統的なお祭り「種取祭」(たなどぅい)に行ったときに撮らせていただいた。沖縄・八重山地方独特のニライカナイ信仰において「ニライカナイ(理想郷)からやってきて幸福をもたらす」といわれるミルク様(弥勒様)のお面。どうです、ご利益がありそうでしょう。
沖縄は祖先崇拝を基本としているが、島全体が神社と言ってもやぶさかではないほどあちこちに拝所や御嶽(うたき)が点在する。見えざるものに手を合わせ、五感をひらくことを生活の一部となっているのですな。
無宗教とかなんとかはさておき、私も手を合わせて二礼二拍手ののち目を閉じて胸の内でぶつぶつつぶやいてみる。あれが苦しい・これがつらい・ああなりますように・こうなりますように──するとそのうち、瑣末な悩みや望みに振り回されている自分がちっぽけに思えてくる。最後は「とりあえず世界平和」とつぶやき、知らず知らずに「ありがとうございました」と頭を下げている。
神社って、自分の中にいる神様と対話する場所なのかもしれません。
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