「.....................」
ある朝。会社のドアが開いたと思ったら、センセイ(社長のことを私はこう呼ぶ)といっしょにカオリさんがぐったりと憔悴した顔で現れた。いつもにぎやかに入ってくるのに、どうしたんですか?
「............オットの運転で来たのよ。寿命が縮まったわ............」
えーーーーーーーっ!! センセイ、免許持ってたんですか?!
詳細な統計を調べたわけではないけれど、成人男性の大多数は運転免許を取得しているであろうと思われる現代ニッポンにおいて、この会話はちょっと奇異に聞こえるかもしれない。しかしですね、センセイ一家においてはツマが運転、オットが助手席という光景があたりまえ。まあ不都合はないようなのでこれでいいのだろう、とスルーしていたのだけれど、そういえばセンセイ、数年前に「免許更新に行ってくる」と中央警察署へ出向いたことがあったっけ。
「これから私が免停になると移動が不便よね、って話になったら......」
「そういえばオレも免許持っていたことを思い出してね、そうかオレが運転すればいいのか、と。しばらく運転してなかったから、練習がてら会社まで運転してきた」
淡々と語るセンセイ。しばらくって何年ぶりですか?
「子供たちが小さいときに家族旅行でちょっと運転したきりだから、20年ぶりかなあ。その前が20歳ごろに免許を取ってすぐに運転したきりだから、40年間で2回しか運転したことがなかったんだなあ」
えええぇぇぇぇ40年間で2回?! よく運転する気になりましたね。というかカオリさんも勇気ありますね。
「子供たち(長男と長女・道外在住)に『いまお父さんの運転で会社へ向かっています』ってメールしたら『お父さん免許持ってたの?』って返ってきたくらいだもんねぇ」
「いやぁ、久々に乗ったけど楽勝だよ。AT車なんてゴーカートみたいなもんじゃないか」
そ、そんなことないですよぅ。お宅のクルマ、ホンダのアコードワゴンじゃないですか。あの手のクルマって車体感覚をつかむの、大変では?
「まあねぇ。でもホラ、隣でカオリがなんだかんだとクチを出すから」
「出さずにいられないわよッ! この人ったらカーブを曲がるときにアクセル踏むのよ。逆でしょうがッ!! も~う心配で心配で、当分ひとりで運転させられないわ」
日頃は口ヒゲをたくわえた知的風貌で知られるセンセイも、20年ぶりにハンドルを握ればツマの非難ごうごうにうなだれるのみ。カオリさんは「あなたはまだ夜の運転はムリだから、今日は地下鉄で帰ンなさいね」とクルマで先に帰ってしまい、センセイも慣れない運転に疲労したのか、その日は早々に帰宅されたのであった。いやはやお疲れさまでした。それにしても40年間で2回しか運転したことのない人が「AT車はゴーカートみたいなもの」などと豪語するくらいだから、私なんてもっと自信を持って運転してもいいのかもしれない......などとひそかに思う私なのでした。
それからセンセイは毎日傍らのカオリさんに厳しくチェックされながらも自らハンドルを握って出社し続け、さらに数日たったある夜、言った。
「ササキくん、帰るならクルマで送ってあげよう」
とおっしゃった。うわぉ、ついに他人を乗車させるまでに成長しましたか。
「まあ念のため、後部座席にシートベルトをして乗ってもらおうか」
うーむ、社長を運転手のように扱うのも気が引けるが、命には代えられぬ。ではお言葉に甘えて、いちばん安全と言われるドライバーの後部座席にシートベルトをがっちり締めて、と。
「ではいざ、死出の旅へ」
うわぁ縁起でもないことを言わないでくださいッ!!
それから20分ほどの乗車中、私は運転席のシート後部についたホルダーをしっかり握りしめて前傾姿勢のままだったことは言うまでもない。センセイの注意力が散漫にならないようよけいなことは話しかけず、さりとて「あ、あ、あ、急発進しすぎ」「そんな裏道を通らなくてもいいですから、大きな道をゆっくりと」などと口うるさく言ってイライラされても困るし、と思いは千々に乱れつつ、自宅に到着したときは安堵のあまり思わず拍手してしまいました。昨年還暦を迎えたセンセイ、このトシになって運転で拍手をもらうことになるとは思っていなかったことでしょう。いやぁ人生何が起こるかわかりませんね。
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